起業事始
高橋箒庵
人生50歳からでも十二分な仕事が出来る。
自分は「年だから」と思ったらおしまいです。50,60は「洟垂れ小僧」は何も政治の世界ではありません。明治から昭和まで50歳からさらに一流を極めた人もいます。その一人として高橋箒庵の紹介。
●高橋箒庵:1861年生 1937-12-12没
水戸藩士の子として生まれた高橋箒庵(本名:義雄1861〜1937)。彼の人生は50歳までとすべての職を辞めた後、50歳以降の人生との2つあるようだ。高橋箒庵はあとの人生の号。
高橋義男は福沢諭吉の影響を受けて上京し、慶應義塾で学んだ。卒業後、時事新報社に入社し、「商政一新」を著した。その後2年間アメリカ・イギリスに遊学します。帰国後、三井銀行に入行し、さらに三井呉服店(現在の三越)に移ってからは、海外での見聞を活かし、主にデパートメントストアをモデルとした大改革を行ないます。その後三井鉱山、王子製紙の経営にも参画しました。銀行の受付に女子社員を置いたり、三越で着物の美人モデルを広告に使用したアイディアは彼の創作といわれている。
すべての職を辞した後の高橋義男の次の仕事は、茶の湯の世界で高橋箒庵として、こちらのほうが有名である。
その影響者は、近代最初の数寄者と言える明治の元勲井上馨と現三井物産の創始者で三井財閥の代番頭の益田鈍翁(孝)です。箒庵が茶道をはじめたのは益田鈍翁の弟克徳の茶会がきっかけになったといわれています。三井呉服店に移った35歳頃。
箒庵の名は、二畳台目の好の席を箒庵と名付けたことからその号があるという。明治31年には麹町一番町に茶室を建て、由利公正から「寸松庵」の名を貰った。
高橋箒庵の茶の湯の心意気は
「茶の湯は本来趣味である。趣味として之を楽めば夫れでおらは満足する。」「近頃世間には茶の湯と云ふ事に馬鹿々々しく勿体をつけて道徳の教訓と結び附け、忠君愛国の気風を養い危険思想防止の効能があると言ひ触らし、甚しきは茶道経国など云ふ大げさな宣伝をする者もあるやうだが、おらが茶の湯はそんな者ではない。」(共に「おらが茶の湯」)
といい。従来の形にとらわれ、精神論的な茶の湯と一線を画していた。そのための摩擦もかなりあったと、いわれています。
高橋箒庵の著書は「東都茶会記」13冊・「大正茶道記」8冊・「昭和茶道記」2冊、復刻版があり全10冊6000ページに及ぶ。高橋箒庵の没後に出版された日記「萬象録」でこれは、政界から芸能界までの広い交際相手の話題などの個人的事情(裏情報)が描かれている。また「大正名器鑑」「近世道具移動史」によりこれまで一般人には秘密のベールに包まれていた名物といわれる道具の情報(付属物、伝来、所載文献、寸法、実見場所、形容、釉景、高台など)であるが、これは一人ひとりの道具の所有者をカメラマンと共に訪ね歩き15年間かけて完成させたものである。出版から80年以上経ても、最高の茶道具図鑑といわれている。
もう一つの箒庵の文筆活動は「おらが茶の湯」「箒のあと」「趣味ぶくろ」に代表されるように茶の湯についての考えをまとめ人々に広めた点であろう。また、後にはラジオ放送で茶の講座をしたこともある。
さらに護国寺が茶道本山として知られていることや高野山宝物館建設に尽力したこと。長唄の作詞から茶室の設計までこなす。偉大さもありますが、意欲に脱帽します。
おいおいそんな時間何処にある?新幹線内、インターネットや携帯がない時代。そしてその顔の広さゆえの冠婚葬祭の頻度も常人の10倍はあったと想像される。
平均寿命が50歳以下の時代に凄いですね。
